人にとっての「考える」という行為

本と脳みその関係

 

本を読むと脳内には何かしらの映像を浮かべています。

小説であれば、勝手に主人公像を描いています。

この像は人により異なります。男性あるいは女性という部分は同じでも美形だったり、そこまで美形でなかったり、強面の顔を想像する人もいれば、優しそうな人を想像している人もいます。

 

ビジネス書であれば、いま置かれている状況と照らし合わせて、こうすればうまくいくのではないかと頭の中で想定しながら読み進めています。そして、語りかけてくる著者の人物像も勝手に想像しています。想像の人物が語りかけているかのように頭の中に浮かべているのです。

 

読書は主人公に照らし合わせて自分事として読み進んでいきます。自分ならこうするが・・・と思いながら進むと思わぬ展開で予測が外れます。この予測修正で脳内に新しいものができあがり、理解を深めることになります。

 

映画の場合、人物像を想像で描くことができません。想像させずに映像というリアルで人物像を固定させてしまいます。個々に勝手に人物像をつくることは許されないのです。また、想像を思いめぐらす時間も与えてくれません。作り手のペースで映像は進んでいきます。完璧にエンターテインメントとして送り手が作り込んだ効果で動かされてしまいます。

 

しかし、本は自分のペースで進めることができます。少し読んで休めば、想像を膨らませる時間を自由に取ることができます。十分に想像してから次に進むことができます。

 

この脳の働きそのものが本を読むことによる効果です。



考えることは本当にしんどいのか?

 

考えることはしんどいと感じる。なぜ、しんどいと感じるのか?

脳みそは常に何かを考えています。考えないようとしても瞑想のような特殊な訓練をしない限り、脳みそはつい考えてしまっています。

 

脳みそは常に何かを考えてはいるのですが、ほとんどは堂々巡りな考えです。堂々巡りなのでそれほど脳みその負荷は高くないのです。

脳みそは考えずにはいられない性質から考えてはいるのですが、負荷を下げるために基本的に次に進むことのない同じことを考えているのです。

この状態から本当に考えなければならないことが出てくると、しんどい、考えるのが面倒ということが脳みそから発しられるのです。

 

しかし、このしんどいも訓練すれば快適になります。日々散歩もしていない人が5㎞走れといわれてもしんどいだけです。

普段から散歩をしたりジョギングをしている人であれば、快適に走ることができます。考える行為も普段の訓練しだいです。

 

人は本来、考えることが得意な生き物です。

走る速さではチーターに負けるし、腕力ではゴリラに敵いません。泳力ではイルカに敵わないし、鳥のように空を飛ぶこともできないのです。

しかし、唯一「考える」はどの生き物にも負けません。



言い切る力

 

言い切るのが苦手な人が多くなっています。

・・・的な

・・・のような

・・・風

・・・と思う

間違いを恐れるあまり、保険替わりに言っている部分もありますが、深く考えていないのが要因です。いまは情報が次から次へと現れてくる時代です。一つのことに集中して深く考えている暇はありません。そのため、深く考える練習ができてない、あるいは深く考える前に結論を提示する必要があるので、言い切らない言い方になってしまうのです。

昔は入ってくる情報も多くなかったので、自分が興味をもったことに対して深く掘り下げることができました。また、情報がないのでまわりとの比較をされたり、したりすることもありません。自分が変なことに興味をもってしまっているという認識も生まれず、途中で辞めてしまうことも、違うことに興味を持ってしまうこともありません。

深く考え、言い切れる条件がそろっていたのです。

もう一つは失敗を恐れる傾向が強くなっていることです。これほど、情報が蔓延している世界では失敗ができないのです。しかし、ほとんどの事柄に正解がない時代ですので、考え方がことなるだけで、本来失敗が存在するわけではないのですが、必要以上に恐れています。

 

自分なりの結論がでるまで深く考えていれば、「言い切る」ことができるのです。

考えが足りないと~的な、~と思うと言ってしまうのです。

常に深く考えている人は、自分の考え方の方向性が決まっていますので、自分の考えは「こうだ」と即答します。