空間までも商品化
商品化 = 効率化
資本主義は今まで商品でなかったものが
商品として売り出される世界です。
データも今や商品になっています。
「膨大なデータ+分析」これが商品です。
この世界はいま唯一膨張を続ける分野となっています。
昔、おにぎりは誰かがにぎって提供されるものでしたが、今では機械がにぎって商品として売り出されています。
昔、水は水道の蛇口から出て、ただ同然のものでしたが、ペットボトルに入った商品として売り出されています。
まだ、商品化されていないものも世の中に存在します。
最終的には人の感情も商品化されそうです。
ただ、商品化されると次はその商品の利益を高めるために、
生産性が求められます。
より効率的により低いコストを求められます。
一度商品化されると否が応でも無駄を省き、
利潤を高める動きが働きます。
食
食の文化も効率を追求した商品に一部なっています。
コンビニ弁当、牛丼、ハンバーガー、ファミレスなどは
効率を追求した商品になっています。
工場で専用の機械を使って大量に生産されます。
もちろん、いろいろ研究され、おいしい味付けにはなっています。
本来、この文化的なものを商品化してはいけないのかもしれませんが、これにより味の均質化、専用機械による効率的調理、自動パッケージなど安くておいしいものを頂くことができます。
「食」という文化的行動が商品になると、
感情的なものは効率を下げるため排除される方向に働きます。
回転ずし屋さんはまさにすしを作る工場です。
厨房では機械がすしをにぎり、レーンに流れてきます。
実質的にはすしを製造している工場で
食事をしているのと同等ですが、
工場で食事をしているとなるとあまりにも味気ないので、
厨房は見えないようにして、
システムの指示によりアルバイト店員が
インターフェースとして動き、
かろうじて人と人が接する空間をつくり上げています。
確かに値段のわりにはおいしいですが、
そこに文化的なものは感じられません。
機械により最も効率的に作られたものをお腹に入れ、
空腹を満たしているだけです。
では、すし職人が目の前ですしをにぎり提供してくれる寿司屋とは何が違うのでしょうか。
売っている商品は「すし」でこれは回転ずしでも変わりません。
しかし、商品化されていないものがあります。
職人的技、板前さんとの会話、板前さんの気遣い、
店内の雰囲気、微妙なにぎり具合のばらつき、
たまたまとなりに座ったお客さんとの会話など
商品化されていないものが存在します。
そこには文化的なものが存在します。
ただ、お腹を満たしているだけではないのです。
完全にできあがっているものでは文化的な部分を享受できないので、
少しだけ手間がかかるようにわざとそうしているのですが、
これも基本的には同じです。
結局、効率重視で製造されているため、
商品としての利潤は高いし、おいしいのですが、
「味」が感じられないのです。
味は何で決まるのでしょうか?
「味」を決める要素は、食材の変化、仕込み、人が調理している姿、できるまでの待ち時間、調理中のにおい、できたて感、作り手の愛情・想い、料理の温度、料理のビジュアル、毎回の微妙なばらつきなどが入り混じって「味」となって現れます。
機械で効率的においしい「味」をつくっても味気ないのです。
例えば、ピクニックへ行ったとき途中で昼食をとります。
そのとき、朝コンビニで買った弁当とお母さんがつくってくれた弁当では、お母さんが朝つくってくれた弁当の方おいしいです。
味の絶対値(絶対値というものが存在するかは不明ですが・・・)はコンビニ弁当の方が高いかもしれませんが、お母さんがつくる弁当には絶対値的な味とは別のものが含まれているのです。
止めることができない資本増殖
資本主義とは、とめどなくあらゆるものを商品化していくシステムですが、商品化し効率的に生産してはいけないものも存在するのです。