ないものをコントロールする虚構
ジカンとは
本来「時間」という概念は人間が勝手につくりあげた概念であり、現実としては存在しません。
狩猟採取民族では、日の出、日の入りなど大雑把には存在していましたが、現代ほどの共通認識的な概念はありませんでした。
人を一斉に動かすために都合のよいルールが必要であったと考えます。
村ぐらいの少人数であれば、集合時間を日の出から「しばらく」でもいいのですが、人数が増えてくると、日の出から「しばらく」ではすべての人を集めることができません。
人によって「しばらく」の感覚が異なるからです。
狩猟採取民族であれば、1,2時間狩猟採取時間が遅れても問題ありませんが、工場勤務では1,2時間も就業時間が変動しては困るのです。
時間を効率的に使うワナ
時間を効率的に使い、生産性をあげればあまった時間でゆったりと過ごすことができると考えますが、現実は異なります。
生産性をあげればあげるほど余分な仕事が増えていきます。
空いた時間に別の仕事が入ってくるのです。
パソコンが普及すると手書きがなくなり、大幅に時間を短縮することができると思われていましたが、いまではそれが幻想であったことがわかります。
確かに、手書きは無くなりましたが、手書き時代とは比べものにならない膨大な量の書類がつくられています。
メールが生まれたとき、これからは一瞬で連絡が届き生産性が各段に上昇し、仕事が楽になると思われましたが、現実は逆です。
毎日、膨大なメールが届くようになりました。処理できるレベルを超えています。
時間を短縮できるツールができてもそれに代わる仕事がどんどんつくられていきます。
時間を効率的に使ってもどんどん埋められてしまうのです。
締め切りを伸ばすとさらに時間がかかる
1週間程度でできそうな業務を余裕をみて納期設定を2週間とすると、2週間以上かかってしまいます。
必要以上に期間を延ばせば延ばすほど、その間に外乱が入る余地が増えてしまいます。実際にその業務に必要な時間は決まっており、期間を延ばしてもその業務に携わった時間は同じです。期間を延ばせば延ばすほど、間に入る別の業務が増えるだけです。
時間を有効に使おうとしてもうまくいきません。
時間は人が創り出した概念でそもそも存在しないものです。存在しないものを使うという不思議な状態となっています。存在しない時間を支配することに無理があるのです。
未来を考える危険性
将来像を描くのはよいのですが、未来を考えることで、現在を疎かにしてしまうという問題が発生します。
未来が見える人はいません。
一歩踏み出すと、足元が少し見える程度で遠い先を見ても霧に隠れて見えません。
一歩進むとまた少し先が見える、さらに一歩進むとさらに少し先が見えるという感じです。
タイムリープをしない限り、未来や過去に生きることはできません。人は現在しか生きることができないのです。
将来のためのガマン
将来のために今はガマンを繰り返すことは正しいのでしょうか。
将来のために今はゲームをせず、勉強をする。
将来のために今はテレビを見ず、塾にいく。
将来のために今は旅行に行かず、貯金をする。
将来のために今はサーフィンをせず、資格勉強をする。
など、「将来のため」を理由に今の楽しみを殺しています。
将来からみて延長線上に今があり、そのために今を行動しているのであれば、そんなすばらしいことはありませんが、ほとんどの人はそこまで明確な道しるべを持っていません。
さらに、いうのであれば、今を犠牲にしても将来は保証されていません。その夢見る将来が永遠に訪れない可能性もあります。
今を犠牲にする生き方に幸福感はあるのでしょうか。
そして、今を犠牲にする行動はどこで辞めればいいのでしょうか。
おそらく、一生涯において経済的な不安がなくなったところで、今を犠牲にすることはなくなるのでしょう。
しかし、この一生涯における不安は果たしてなくなるでしょうか。
未来では何が起きるかわかりません。
・平均寿命が150歳になるかもしれません。
・病気で亡くなることがなくなるかもしれません。
・お金の価値そのものがなくなるかもしれません。
・人と機械が戦う世界になってるかもしれません。
未来を完全に当てることはだれにもできません。
この変化の激しい世の中を考えた場合、死ぬ数年前でも、死ぬときには世の中が変化してるのです。つまり、死ぬまで不安はなくならないということです。
こう考えると未来を考えることに意味はなくなります。すべての人は、今現在しか生きることができないのですから。
時間の概念は必要なのか
ここ300年より以前までは、人はほとんど変化のない時代を生きていました。
生まれて、成長して、年老いて死んでいく、これがおじいさんの時代、孫の時代でもほとんど変化せず繰り返されてきました。
変化のない世界で、未来を考える必要はありません。
将来的に変わらないので未来がどうなるのだろうと悩む必要がないのです。
先が見えており、未来に何が起きるかの不安はありません。おじいさんが歩んだ道を踏襲するだけです。
時間という概念が重要となり、将来(未来)を考えるようになったのは、つい最近で世の中の変化速度が早くなったことによります。
おじいさんと孫では全く異なる世の中を生きることになるのです。
しかも、孫の代ではどのような世の中になっているかは、だれも予測できないのです。
現代人は、だれも予測できない未来に対して漠然とした不安を抱えて生きているのです。
では、どうすればいいのか?
今を犠牲にしないことです。
そして、一つのことに固執しないことです。
臨機応変に変化しながら今を進んでいくのです。未来はどんどん変化するものととらえて、変化を楽しみながら進むのです。
現代では変化の度合いが激しいため、未来を心配しても意味がなくなっています。思っていた未来とは全く異なる未来が現れるので考えても意味がないのです。
もう一つの方法として、
『人新世の資本論』でも紹介されていましたが、成長しない経済を目指せば、未来への不安を抱えることはなくなり、今にフォーカスして生きることができるのです。
経済は成長することが前提となっていますが、成長至上主義もそろそろ終えてもいいのかもしれません。