評価経済社会

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にわかに現実味を帯びる



不細工、素行が悪い、反社、才能がないなどの人間でも今まではお金があれば何とかなっていました。

 

しかし、現在、お金が世の中に大量に溢れています。これだけ大量に存在するとお金の価値が無くなる方向に動いてしまいます。金に物を言わせて思い通りに動かすことができなくなるのです。



お金がものを言わない世界

 

お金の所持量で評価されない世界とはどんな世界でしょうか?

 

「性格悪いけど、スーツケースいっぱいに10000円って書いてある紙(1万円札)をもってるのだけど」

 

「性格悪いけど、スーツケースいっぱいにトイレットペーパーをもってるのだけど」

 

同じ紙でも1万円札を大量に持っている方は性格の悪さを凌駕する魅力がありますが、トイレットペーパーの方はだから?となります。

 

みんなの共通認識で1万円札という紙にはそれだけの価値があると信じているからです。

 

しかし、大量にお金を集めることでは幸せに成れないことが見えてきました。基本的な生活ができるレベル(日本の場合手取り年収450万)まではお金が増えると幸福が増えます。しかし、それ以上ではお金が増えるに比例して幸福が増えません。さらに、お金そのものの価値も下がってきています。

 

評価主義

 

お金よりフォロワー数が大事。評価主義が蔓延しだすと、お金のように逆転ができない状態となります。お金を手に入れて一発逆転が使えないのです。お金と違って評価はそう簡単にひっくり返らないのです。

確かに今の若い人を見ると、お金至上(拝金)主義は薄れているように感じます。お金より自分が楽しいと思えることをする。昔のようにお金が優先順位の一位ではなく、マイナー(ニッチ)なことで、あまりお金にならないことでも自分が楽しければいい。優先順位としては「自分が楽しい」ことになってきているように感じます。

一昔前の若者(団塊の世代)はガツガツして、お金至上主義を貫いてきたように見えます。多種多様ではなく、一つの価値観を共有し、それをめざして落ちこぼれないようにがんばっていたように思います。

今、団塊の世代という多数を占める世代が引退(完全引退)をしようとしているときですから、時代の流れが変わっても当たり前だと思います。

 

新しい時代が幕を開けることをわたしはうれしく感じます。団塊の世代の人から言わせれば、戦後の何もない状態からここまで創り上げたのはわれわれであると言いたいでしょう。確かにおっしゃるとおりです。

しかし、ガツガツした声の大きな世代がいつまでも居座われても困るのです。潔く引退していただかないと、次の世代がのびのびと活躍できないのです。

時代は変わりつつあります。金融システムが限界を迎えつつある今、「お金」より「評価」に基準が変わっていくことはまちがいないようです。



自己責任

 

自分が楽しいと思うことを行う。すばらしいことです。しかし、ニッチな世界で自由にできることはいいことですが、ニッチであるが故に個人で行うことになってしまいます。すべて、自分で考え、自分で決め、自分で行動し、自分で出た結果の責任を取る必要があります。自由にできるかわりに失敗しても自分の責任になります。

結果がよくなくても社内の人間関係が悪い、システムが悪い、世の中が間違っているなんてことは言えないのです。すべて自分が悪いのです。結果がよくなかった場合、謙虚に受け入れ前に進めるかどうかです。何回か失敗が続くと凹んでしまいますが、それでも進めるかどうかです。

 

すべてが自己責任というシビアな世界が待っています。